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コー・ヒロ@ムーナンダ

@hiro_meditation

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2002年からミャンマーに移り住み、現在はお寺で期間限定(仮釈放あり)のムーナンダという坊さんになって修行中。現在ミャンマー軍事政権のSNS妨害システムによりXの閲覧・ポスト・DMのお返事が出来ません。ウ・テジャニヤ長老著書の日本語版と瞑想センター記事の修行者列伝はブログの方へ。#瞑想 #マインドフルネス

ミャンマー・シャン州
Joined July 2020
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
1 month
[お知らせ]SNS接続が困難なミャンマーのコー・ヒロさんに委任され暫しの間、日本のサンガ有志がこちらのアカウントからウ・テジャニヤ長老の言葉をお届けします。今までヒロさんがポストされたアーカイブを金土の週2回ポストしていきます。今後も瞑想のお供にお役立て下されば幸いです。
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
たとえ他人に知られたくないような思いが出てきても、自分でも恐ろしくなるような感情が出てきても、それを止めたり分析したりせずにただ見つめる事、それが瞑想だ。思考や感情がある事を認識すればそれで十分、終了だ。体験する事を変えようとしない心がけが大切だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 months
ほとんどの人は仏教では、苦しみは望むものが手に入らないが故に発生するので、欲望を断ち切れば苦しみがなくなるという教えを説いていると誤解している。しかし実際には、苦しみは「私のもの」「私が行う」という思いが原因で発生してくるので、それを止めるように説いている。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
混乱している時は「何をすべきか?」「どうすべきか?」と焦って早くその状態から抜け出そうとしている。だが、そんな時は答えを探すのではなく、ただ混乱の状態に目を向けた方がいい。答えを探すと益々混乱する。落ち着くまでのその間、その混乱の状態を良く観ておく事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
マインドフルネスの実践は正しく行う事が目的なのではない。これは体験から学ぶための方法だ。失敗してもそこから学ぶうちに、見えなかったものが見えてくる。つまり自身の心の深層にあるものが見えてくるのだ。だから失敗する事を自身に許してやらなければならない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
私たちは通常、身体の世話ばかりして、心の世話の方はあまりしない。しかし体調の悪い時などは、しっかり心の世話もした方がいいのだ。何か不満はないか?健康を望んではいないか?思考はまとまるか?体調の悪い時はそのような事を繰り返しチェックする事で癒される。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
古い習慣を変えるには、感情が生じるたびに気づく事。そうすればそれ以上古いパターンを育てる事なく、新しい習慣に移行する。心は正しい習慣を知ると、二度と古い習慣には戻りたくはなくなる。すると気づきが良くなり、智慧が生まれ、理解が深まり、考え方が変わる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想しない人は心の中で何が起こっているのかわからない。瞑想を始めると自身の良い面と悪い面、醜い面などに気づく。すると自身を良くしようとアレコレ模索し始める。そして瞑想に慣れてくると、心を良くするには気づき続ける事こそが最良であると理解する。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
マインドフルネス瞑想の目的は、心身に起こっている事を知り、理解する事だ。だから私たちは気づこうとしている。雑念に気づき、思考に気づけば目的は達成している。しかし私たちは雑念が出てくるのは良くないという誤った考えも持っている。問題なのは雑念よりもそちらの方なのだ ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者は、瞑想中に頭が冴えたとか、気持ち良かったなどのいい体験をするよりも、雑念だらけでもそれに気づき、騒音に悩まされていてもそれに気づいていた方がましである事を知るべきだ。私たちが開発しているのはいい体験をする事ではなく、気づく事そのものの方なのだから。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
私たちは不快な物は悪く解釈し、喜びを覚えれば過大評価する。マインドフルネス瞑想はそうならないための訓練だ。不快さや嫌悪感に気づき、喜びや愛着に気づきながら見る事で「好きな物や嫌いな物があるのではなく、自分がそう思っているだけ」と錯覚から脱却し、問題から離れる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
思考があるのをただ知るだけの練習をすると、それが習慣化し、考えている時は必ず気づいているようになる。ここまで来れば思考中に気づきが失われる事はない。また、自身に気づきを強いる必要もなく、習慣づいた勢いで気づいていられる。そうなると気づきと思考とが一緒に生じる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
気分は瞑想中のひとつの対象だが、わざわざ「素晴らしい」とか「爽快な」などと言葉にする必要はない。それよりもその気分の性質を感じてみる。心は気分を解釈しようとするが、解釈する余裕があれば、その気分のエネルギーを感じる方が大切だ。解釈に惹かれないようにする事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
6 months
自分で嫌だと思う癖が出たり、貪欲さや怒り、不安、心配などの嫌な感情が出ても、何も変える必要はない。ただ気づく必要があるだけだ。癖がついたらそれに気づく。それだけで十分だ。しばらくすると心は何かを学び、理解する。理解する事でその癖は変わる可能性がある。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
日々の生活を落ち着いて過ごすためには、普段から貪欲さや怒り、恐怖や心配、不安などの感情を監視しておく必要がある。だがそれを止めるのではなく、感情の性質を理解する事が大切だ。瞑想の目的は心身が体験するものを止めたり変えたりするのではなく、そこから学ぶ事なのだから ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
心を内側に向ける時は、心を保護している事になる。心を外に向けたり、気づかず考えていたりする時、心は惑わされる。心が惑わされると貪欲さ怒り、嫌悪感、不安、恐怖などに襲われる。だから自身の心身の行いに気づいている事は、自身の心を守っている事になる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
智慧を積み上げる事は、人生の問題に立ち向かうための準備となる。深刻な問題が発生する前に「経験する事は全て単なる知られるものに過ぎない」事を理解しておけば、何事にも冷静に対応できる。実際には問題が深刻なのではなく、自分が深刻だと思っているだけだと理解しておくのだ ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中に生じてくる感情は、鎮めようとするよりも、できるだけよく感じて発散した方がいい。さもないと何度でも生じてくる。感情が高まって気づきを維持できない場合は、呼吸や胸の鼓動などの快でも不快でもない感覚に移ってやり過ごし、鎮まってからまた観察に戻った方がいい。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
歩く時は常に歩く事に気づく。そうすればそれが癖になり、日常生活の中で歩くたびに気づきが戻るようになる。そのように、徐々に他の動作にも気づくようにしていけば、またそれが習慣化していく。だからまず最初に、歩くたびに気づくようにする。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
慈悲の瞑想は、心が動揺している時にフレーズを暗唱するだけで落ち着く事ができる。瞑想のフレーズを暗唱する時に心は「全ての存在が元気になり、幸せになりますように」の意味を理解するので、心に平安さがもたらされるからだ。それは気づきを助ける事にもなる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
7 months
他人から言われた言葉で傷ついた時は、その言葉の意味について考えない。そんな時は心の痛み、悲しみや恐怖、怒り、憎しみなどの感情に目を向ける。解釈や自己イメージをする事によって状態は悪化するが、感情を観れば心は落ち着くからだ。感情が収まれば心は癒される。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
9 months
瞑想中にネガティブな感情に圧倒されそうになっても、その感情と闘ったり、その感情が減少するようにしたりする必要はない。ただ観察する必要があるだけだ。観察すると心のポジティブな性質が成長し、ネガティブな性質は減少する。つまり悲しみを理解するつもりで観ればいい。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
特定の思考が心を苦しめる時は、その思考を続けるべきではない。心配が否定的な思考を生み、それによってますます心配が増大する。心配をよく感じてエネルギーを発散させたり、呼吸に避難して心配をやり過ごしたりしてもいい。とにかく否定的な思考で苦しむべきではない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
5 months
もう一つは瞑想はネガティブな感情を抑えるものではなく、それを理解するためのものであるという見解に立つ事。何か嫌な事を思い出しても、そのストーリーに目を向けるのではなく、感情に目を向け、その性質を理解しようとする事だ。そうすれば思考や感情に巻き込まれずに済む。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
気づいていると、物事を頭でだけ理解するのではなく、経験によって学ぶようになる。別の例として、私たちは怒りが良くない事を知っていても、経験的には理解していないので直ぐ怒る。頭だけの理解では怒りに負けてしまうのだ。だからいつでも気づいて、怒りについて学ぶ必要がある ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 私は慢性疾患を患っており、それが心を苦しめます。ですから辛い時は嫌悪感を観察します。 長老 あなたは既に病の時の観察法をマスターしている。その通り、身体が不快な時は心がそれに抵抗し怒りが生じる。だが気づきの智慧があれば身体の痛みはあっても心は苦しまない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 リラックスできません。 長老 という事は緊張している事に気づいているという事だ。ではその緊張感は快感か不快か?そしてリラックスを自己に強いると余計に緊張するので、そういう時はリラックスしたいという気持ちの元にある「楽になりたい」という渇望に気づく事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
慈しみを育て、困難な体験を受け入れられるようになれば、観察も積極的に行うようになる。受け入れをもたらすのは興味でも慈しみでも、どちらでも構わない。心が受け入れて観察する正しい見方さえ出来ればいい。気づきは智慧でも慈しみでも、どちらでも安定させる事が出来るのだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
6 months
嫌な気分になる度、それに気づける事に感謝する。それは何故か?それは嫌な気分があるからこそ私たちは気づきと三昧、智慧を得る事が出来るからだ。嫌な気分でも、それに気づけば善心が生じ、心の質が変わるのだ。そう考えれば嫌な気分になっても、心はそれに抵抗しなくなる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中に起こってくる事は何であれ、概念化したり解釈したりせずに、そのまま観るようにする。「怒っている」「喜んでいる」等は概念・思考だ。概念の方ではなく、怒りや喜びの性質に目を向ける。感情のエネルギーを感じるのだ。言葉にできなくても、気づいていれば十分だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 職場に失礼な事を言う人がいるので、仕事中は不快な気分でいます。 長老 その人と話す時も気づいているように。そして気づいている時といない時との反応の違いを観る事。怒りや嫌悪感が出たら直ぐ確認し、不快な気分のままで考えないように。特に「私」について考えない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
感情は概念ではなく、物語でもない。ただエネルギーを感じるだけでいい。感情に気づき、感情によって思考が影響されてしまう事を知るだけでいいのだ。つまり思考は感情を言い表しただけのものに過ぎない。心が思考に関与しなければ、気づきはますます冴えわたる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 他人が苦しんでいる時はそっとしておくのが思いやりですよね? 長老 私たちが思いやりと思っているものは、通常は嫌悪感が混ざっている。実際には他人を自分のいいように動かしたいものだ。だが純粋な思いやりがあれば善心で気分が良くなるから、そこで確かめればいい ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
善心や不善心は快・不快の感受を伴う。善心は心をリラックスさせ、自由にさせるが、不善心は緊張させ、執着を生む。そのような心の状態は、一日に何度もチェックした方がいい。心の質はそうやって自分の気持ちを通して知る事になる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
不安は出来事を概念的に受け取る事から生じる。不安の背後には必ず出来事を否定的に受け取る不快な感情がある。また、たとえ間違えのない、説得力のある解釈をしているように思えても、それも所詮は概念的認識に過ぎない。ただありのままに「私」抜きで認識した出来事とは別物だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
困難な人と話す時は、現実と解釈との違いを観る。私たちは「こんにちは」という音を聞いただけでも「私を尊敬している」とか「私に嫌味言ってる」などと解釈し、一喜一憂させられる。だから自らの思考が創り出す物語を簡単に信じてはならない。その解釈・思考のパターンを掴むのだ ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
古い習慣を変える事は、気づきから始まる長いプロセスだ。気づきが鋭くなると、心を悩ませる怒りや嫌悪感、不安や恐怖などの原因を知る。そのためにすべき事は、心の安定と智慧とを育てるだけでいい。智慧が成長すると「私が」という誤った考え方が苦しみを生んでいる事を知る。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
10 months
心に怒りがあるとして、それに気づこうとする心は善心になる。それは心の質を変え、怒りを消す。怒りが消えるかどうかは重要ではない。重要なのは気づこうとする努力の方だ。気づく努力をしてその努力に気づき、更に気づいている事にも気づければ、瞑想にはもう熟練している。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想を水泳に例えると、水の流れは貪欲さや怒りで、それに逆らって泳ぐ力が智慧だ。より強い智慧はより激しい流れに逆らう。泳ぐ力が十分ではない時は浅瀬に戻ってやり過ごす。浅瀬とは呼吸のような快でも不快でもない中性の感覚をしたものだ。智慧が育てば浅瀬には戻らなくなる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
怒りに心を向ける時は、イライラ、ムカムカの衝動の方を向いていれば直ぐに滅してしまうのに「彼は私を罵った」という思考の方を向くから怒りが増大してしまう。怒りが増大すると「私」という感覚も強くなり「私は怒っている」という考えも強まり、怒りが止まらなくなる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
行いには身・口・意の三種類あるが、怒りがある時は決して考えず、口に出さず、行為で示さない方がいい。気づかなければ怒りは惰性で行為に出されるが、気づけば怒りをどうするか選択肢ができる。怒りが出た時に一番お勧めなのは、何も言わずに静かにしている事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
悲しみや怒りといった感情は、出てきて貰ったり、大きく育って貰ったりしては困る。しかしそれを抑圧してもいけない。感情は「私」から切り離して客観的に観察し、心に思考や身体との相関関係を学ばせる。感情と一体化したり、抑圧したりすると、その機会が失われる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
2 years
例えば15分〜20分呼吸を観ると、概念的なレベルでは非常に退屈だ。しかし実は退屈は思考から来ている。その瞬間に退屈な事を考え、それを嫌悪しているのだ。それに気づけば退屈さはおさまる。ずっと瞑想しているから退屈なのではなく、その瞬間に起こっている事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
4 months
日常生活の活動において「私がやる」という思いを減らし、心身が「私によって」ではなく、心身自体の働きによって活動していると理解できるようになると、掃除の時でも、洗濯の時でも、料理をする時でも、何をする時でもこの認識の順番に気づく事ができるようになる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
8 months
気づくたびに喜び、自らを励ましていると、どんどん気づけるようになる。そうすれば快楽を喜んでいても気づく事ができる。瞑想と快楽を味わう事とは別の活動ではない。瞑想とはただ気づく事。何かに気づくたびに喜び、感謝していれば、気づきはますます成長していく。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
1 year
修行者 うつ病だった長老が出家したのはどういう理由からですか? 長老 在家でうつ病を患っていた時、今の瞬間に気づいているとうつにならない事を知り、常に気づきを継続させていた。一年も継続させたら気づきがかなり勢いづき、日常生活を送りながらでも次々と洞察が生じてきた ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 正しい考え方をするには「私」を入れて考えなければいいのですか? 長老 「私」と考える事を抑圧してもいけない。抑圧するのもまた誤った考え方だ。「私」「私の」と考えたら、そう考えた事に気づく。そうすればもう「私」について考える事はなくなる。それが正思惟だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
基本的に瞑想中の対象となるものは、呼吸だったり暑さ寒さだったり、つまらないものばかりだ。そのままだと直ぐ退屈するので、それに興味を持つというのは相当な探究心がなければできない。だからどんな動機からであれ、心に興味を持てる事は得難い機会に恵まれている事になる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
貪欲さや怒りは抑圧によって止まるのではない。怒りを抑圧しようとする思いも怒りだ。煩悩は継続的に気づいて、心の機能を理解する事によって治まる。貪欲さや怒りがまだ微妙なうちに気づくのが効果的だ。そのためには「私」抜きの正しい思考をし、気づきを継続させる事が大切だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中は貪欲さや怒り、嫌悪感が出てきても抑圧すべきではない。それらは「私のもの」ではなく自然のものなのだから。良い性質の心も悪い性質の心も誰のものでもない。自然のものを「私の」と思うからいじろうとしてしまう。考え方を正して、何事も自然現象として観た方がいい。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
呼吸を観る時に注意するのは、吸ったり吐いたりだけに集中してしまわないようにする事。呼吸を観ていても、音が聞こえて心がそちらへ行ったら直ぐ気づき、雑念や思考、手や足の感覚、暑さ寒さ、空腹感など、心身にどのような現象が生じても判断、解釈を加えずそのまま知る事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想とは何かを得るためにするのではない。もし何かを得るためにやっているのなら、私たちの方法とは違う。ここでやっているのは何が起こっても、それがどうあるべきだとか考えず、起こるがまま知るだけだ。ああなろう、こうなろうともすべきでもない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 日々の活動は忙しく、気づいたり、気づかなかったりしていますが、坐る瞑想ではいい瞑想ができます。 長老 座っていると静かで、いい瞑想をしているように思えるが、それは錯覚で、そんな瞑想は必要ない。本当に必要なのは、気づきを失っては戻り、失っては戻る努力の方だ ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
1 year
なぜ人は体調が悪いと苛立つか?それは楽しい状況に執着しているからだ。そして状況が悪化すると、振り子のように楽しんだ分だけ心は抵抗する。しかし智慧は楽への執着は許さず、楽しい事も辛い事も気づきの対象としては同等であると見なし、執着を超えようとする。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
9 months
修行者 貪欲さや怒り等の煩悩は失くさなくてもいいのですか? 長老 私たちは心に貪欲さや怒り、嫌悪感、不安、嫉妬等の煩悩があっても、それに対して何���する必要はなく、ただ気づく必要があるだけだ。この瞑想は単なる気づきの訓練であり、何かを取り除いたりするものではない。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
いくら思考に耽っても大丈夫。それに気づいて確認し、また気づきに戻る修行を根気強く繰り返すうちに「私が考えている」という物語から醒め「心が考えている」という事実が見えてくる。そうなると「心が働いているだけだ」と思うようになり、もう思考に耽る気がなくなる。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
万事が好調で、欲望のおもむくがままに生きている時は、心が意に従わないため、瞑想しても苦痛をおぼえる。だが、苦しんでいる時は、瞑想すると貪欲さや怒りが鎮まり、快適に思える。欲望を追いかけてばかりいると、いずれその貪欲さで苦しむ事になるが、その時こそ瞑想で救われる ��・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想を始めると、対象を心地よく感じたり、不快に感じたりするたびに自身が対象を判断し、解釈していると思うようになる。対象は単なる知られるもの。良くも悪くもない自然のものだ。これを理解すると気づきがいっそう簡単になる。智慧を持って物事を見るとは、こういう事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
もし富豪だったり、有名だったり、才能があったり、優れた頭脳を持っていたりすると、現実を認識するのに人一倍の努力が必要になる。そのような境遇、つまり悲惨な状況にある人々は、並大抵のことでは真の存在の空虚さを知る事ができないからだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
8 months
修行者 世界の全ては概念であり、幻想であるというのは本当なのですか? 長老 世界は概念であって実際には存在しない。例えば山でも川でもそれについて考えた時は存在するが、感覚や思考に気づいている時は存在していない。智慧がつくほど思考が減るので、概念的世界も小さくなる ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
4 months
怒りを「私のもの」とせず、自然のものと正しく受け止めたら、その感情を良く感じてみる。決して怒りから発生した思考に心を向ける事なく、ただ怒りのエネルギーを感じるようにする。怒りの思考に巻き込まれると心が更に乱れるが、感情を感じれば心は直ぐに落ち着いていく。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 心がリラックスしているほど楽で明確に気づけます。 長老 その通り。リラックスとは怒りや嫌悪感、貪欲さが少ない事を意味する。心が苛立っていたり、欲に駆られていたりしたのではリラックスできず、気づけない。だから修行は真剣に、かつリラックスしてやる事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
誰にでも渇愛という衝動があり、心地よい体験をした時は、無意識のうちに「もっと欲しい、もっといい体験をしたい」と体験を貪り、渇望する。そのためいい事がなかった時に、今度は「望んだ通りにいかない」と怒る事になる。心地よさを貪った分だけ、一転して苦しむ事になるのだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中に磨くのは、気づき(サティ)と心の安定(サマディ)と智慧(パンニャ)。智慧は気づきがあって心が安定している時にのみ生じる。心は気づかれて客観化され、体験から切り離された時にのみ安定する。マインドフルネスのサマディとは深い集中ではなく、体験からの分離を言う ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
気づきが向上してくると、目の前の光景と音とか、呼吸と身体の痛みとか、自然な形で複数の対象に同時に気づけるようになる。それは意図的にやらなくても自然と起こってくる体験だ。だから今するべき事は気づきの維持だけだ。今はとにかくひとつの対象に絞って気づきを磨くだけだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 months
修行者 誤った見解は煩悩を増大させるのですか? 長老 誤った見解、つまり「私のもの」とか「私の顔」「私が勝った」「私は罵られた」「私はこういうタイプ」などと「私」について考えると、貪欲さや怒り、妄想が増大する可能性がある。「私」がなくなればそれは悟りの第一段階だ ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
1 year
修行においては私たちの期待以外に障害はない。修行を続けている限りは瞑想は確実に進歩している。私たちは何も心配せずに修行するだけでいい。心配すべきなのは今の瞬間に気づいているかどうかだけであって、もし心配になったら、確認すべきはその事だけだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 座って瞑想していると、心が雑念やら音やら、あちこちに飛び回ります。 長老 心は飛び回らない。自分であちこちに注意を向けている。注意を向け���のも、気づくべき心の活動のひとつになる。そして同じ心が飛び回るのではなく、次々と違う心が生じては滅しているのだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
7 months
修行者 瞑想で不快な感情を取り除こうとするのは誤った態度ですか? 長老 瞑想で心を落ち着かせようとしたり、不快なものを取り除こうとしたりするのは貪欲さだ。誤った態度になる。そうなると上手くいかない時には不満になり、更にその不満を取り除こうと堂々巡りに陥る。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 空腹時に瞑想していて、お腹がグーグー鳴って周囲の人々に恥ずかしかったのですが「胃がその仕事をしているだけ」と思ったら恥ずかしくなくなりました 長老 羞恥心は「私の」お腹がおかしいという誤った考えからきた。この「私」抜きの方法は他の多くの場面でも適用できる ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
多くの人は仕事を引退するとリラックスして何もしないから、脳の劣化を早めてしまう。だが瞑想は心の働きだ。心を適切に機能させ続ける限りは、脳も衰えてはいられなくなる。今から気づきながら行動する訓練を始めれば、歳をとるほど記憶力も良くなるようになる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
2 years
日常生活では落ち着いた状態や、歓びのある状態を求めたりせず、ただ自らの心身の状態に気づくだけでいい。不満があれば不満を、心配があれば心配を、妄想があれば妄想を知るだけでいい。そして気づいている事を確認する事だ。落ち着きや歓びは気づきの継続によってもたらされる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
11 months
修行者 初心者ですが、なぜ瞑想では呼吸を観るのか教えて下さい。 長老 呼吸に気づいている時は身体と心の2つの世界で生きている事がわかる。まず呼吸する事で身体が生きているのがわかるし、呼吸を観る事で心の中で起こっている事を知り、智慧を実践し、開発する事ができる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 呼吸をメインの対象にしていますが、直ぐ雑念に囚われ、眠りにおちます。対象を変えるべきですか? 長老 対象は関係ない。要は気づきだ。興味を持って気づけば眠くならない。大事なのは自身の心に対する興味だ。自身の心への興味こそが気づきを継続させ、自身を助けるのだ ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中に心を置く場所は、鼻先でもお腹の動きでも、どこでも好きな所で構わない。それよりも自らに強制して置き場所を選ぶべきではない。それによって多くのエネルギーを浪費する事になる。より自然な形で心に置き場所を選ばせる事になれば、心はよりリラックスする。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
常に心の状態に気づくようにしていると、心理プロセスに興味が出てくる。また、気づいている時といない時との心の状態の違いを観ておくと、気づきの重要性がわかってくる。それによって気づきの恩恵を受けると、修行への信が深まり、遂には気づきが習慣化されるようになる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
8 months
五蓋は五蘊(色受想行識)の一つ、行蘊に属し、心の中で生じては滅するだけのものだ。しかし私たちは、それらの感情を「私のもの」と思い込んで、事を大袈裟にしてしまっている。五蓋を自分のものとせず、単に条件によって生滅する無常の心と見なせば、もはや問題はなくなる。 ウ・テジャニヤ長老
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3 years
誰の心の中にも善心と不善心とが混在している。自分を厳しく裁くべきではない。同じ人でも智慧が働けば賢くなり、惑わされれば愚かにもなる。心の質によって、その時々で違った自分がいるのだ。「このような者」と言えるような一貫した主体はない。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 瞑想中に貪欲さや怒りが出たら、それを止めるのですか? 長老 いや煩悩は抑圧して一時的に落ち着いても、また戻ってくる。しかも一層強力になって。それが煩悩の性質で、それによってうつ病になる恐れもある。だからその場合は抑圧せずに継続的に観る事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 私はいつも緊張しているのですが? 長老 呼吸を忘れると呼吸が浅くなって緊張する。吸う息で緊張が高まり、吐く息でリラックスが起こるので、気づきながら深く呼吸する事だ。緊張を感じてからリラックスするように吐く。これを繰り返す。 ウ・テジャニヤ長老
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3 years
私たちは心地よさを感じてもそれに気づいていなければ、それを貪り、渇望し、心地よさが得られない時にその分だけ苦しむ。だから状況が悪化しても慌てる事のないよう、常日頃から警戒し、心地よい時でも病んでいる時でも、いつでも気づいているようにしなければならない。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 なぜ怒っているのか?なぜ心配しているのか?原因を考えなくてもいいのですか? 長老 それを知る必要はない。継続的に観察するだけでいい。知る必要があるのはその思考の方だ。そして思考がなくなったらまた心を、感じている事や感覚に戻して観察する。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
心地よい体験をしたような時は修行が上手くいっていると思いがちだが、そう判断すると進歩は止まる。実際には気づきを繰り返している時こそが進歩している時なのだ。その時こそ上手くいっていると思うべきだ。そしていつでも「気づいているか?」と自問自答する事は有益な事だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
気づくという事は、感覚が生じているのを認識する事。言い換えれば、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官に生じる感覚を、軽く知覚する事だ。決してそれらに集中したり、判断や解釈、分析などを加えたりする事ではない。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
心に何か嫌な気持ちが生じたとしても、別にそれを「私の」ものにしなければ問題は起こらない。悲しみが生じても「私の悲しみ」とはとらえず、単に「悲しみ」とだけ思っていればそれで終わる。怒りや貪欲さ、不安、失望も同様、心はいつも気づきに保護され、安心していられる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
怒りや嫌悪感が生じる理由を理解するには、全プロセスを認識する必要がある。答えを考えるのではない。私たちは答えを得るよりも怒り・嫌悪感が発生する因果関係の方に関心を持った方がいい。思考による理解は浅く薄いが、経験的理解は深いところまで及ぶからだ。 ウ・テジャニヤ長老
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3 years
日常生活の中で、歩く事、考える事、話す事など、何かが起こっている瞬間に気づくようにしていると、やろうと意図しなければ心身は動かない事が判ってくる。それが意志だ。日常生活は概念的だが、意志する心は純粋でありのままだ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
病んでいる時は、気づきを諦めるとますます苦しむので、気づき続けた方がいい。気づき続けた方が苦しみから解放される。ヴィパッサナーが無理ならサマタでもいい。煩悩に圧倒されないように試み続けることだ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
オープンアウェアネス(開かれた気づき)とは、全ての対象は心によって知られているため、心の方を認識する事で全てを知ろうとする方法だ。それが私が気づきに気づく事を強調する理由でもある。対象に気づいている心を認識する事、それが一番効率のいい方法だ。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
思考を観る時、ほとんどの人は思考に焦点を合わせてしまっている。だから簡単に思考に巻き込まれる。だが実際には思考を観る必要はない。思��が生じている事を知るだけでいい。それで十分だ。思考を観ようとすると気づきが失われる。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
思考が怒りや喜びなどの感情から発生し、何度も何度も考えてしまう場合は、全身で感情のエネルギーを感じてみる。感情がおさまれば思考もおさまる。どうしても思考や感情に巻き込まれてしまう場合は、一旦呼吸に避難して、思考や感情がおさまってから心の観察に戻るといい。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
5 months
修行者 私は日常生活での気づきが好きです。なぜなら気づきながら生活すると苦しみが少なくなるからです 長老 私は決して気づいていれば幸せになるとは言わない。そう言えばみんな幸せに執着するだろう。しかし苦しみが少なくなるという言い方は好きだ。それは幸せとは違うからだ ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
私たちは2つの世界に生きている。ひとつは「私・あなた、善悪、優劣」などの概念的世界。もうひとつはリアリティだけの心の世界。概念的世界では「人生は無意味」と思うと落ち込んでしまうが、心の世界では「人生は無意味」と理解する事で、貪欲さや怒りから解放される。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
4 months
修行者 心は自分ではなく自然だという事についてもう少し説明して下さい。 長老 心の中で起こる全ての出来事は自然だという事は、貪欲さや怒りや妄想を含めて、全ての心は「私の」ではなく、それ自体の性質や特徴を持っているという意味だ。それは誰のものでもない。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
勘違いしてはいけないのが、体験している出来事よりも、それに気づいている方がずっと重要だという事。体験の方が重要だと思っていると気づきがおろそかになり、その出来事に興奮したり心配したり、貪欲さや怒りにまみれた心で考え、結局苦しむ事になる。本末転倒してしまうわけだ ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
私たちは気づくものが素晴らしいものでなければならないように思いがちだが、そんな事はない。どんな体験であれ、それに気づく事こそが素晴らしい。そしてその気づきを認識する事が重要だ。心には何が起こるかわからないが、それが恐ろしい時は気づきがある事を思い出せばいい。 ウ・テジャニヤ長老
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コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
瞑想中に対象に集中し過ぎていると、自分を客観視できず、智慧も育たない。しかしリラックスして心を自由にしていると、対象とそこから生じる思考との両方を見る事ができる。つまり心身の相関関係や、対象と心との関係性も見えてきて、理解する事ができるわけだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
他人が自分について何か言う時は勝手な決めつけだと思っても、自分が他人について言う時はそう思わない。お互いが事実ではない事を言い合っても、お互いにそれに気がつかない。それはお互いに想像に過ぎない事を事実だと信じているからだ。人々は心で思う事を信じ過ぎているのだ。 ウ・テジャニヤ長老
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@hiro_meditation
コー・ヒロ@ムーナンダ
3 years
修行者 毎朝ネガティブな想念で目が覚めてしまいます。 長老 それは微かなうつ病の兆候だ。誰もがうつ病を持っているが、それを隠しているだけだ。だから朝目覚めると嫌な考えが浮かんでくる。その思いや感情が出たら直ぐ気づく事だ。今のうちに観察対象にしてしまった方がいい。 ウ・テジャニヤ長老
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